『プリズナー』──ジェレミー・レナー渾身の“弱り顔”

 ワグネリアンワーグナーの楽劇の録音を聴くなりどの歌劇団で誰が指揮を振った何年の録音であるかを当てることができるのと同じ理由で、私にはレナーの顔を一目見るなり大体どの映画のレナーかがわかる。当然、ジェレミー・レナーの顔を長時間堪能できる映画が観たい、という時がある。長時間、という点だけを追求するなら近所のツタヤにでも行って『ハート・ロッカー』なり『ボーン・レガシー』、あるいは『ヘンゼル&グレーテル』などを借りてくればいいのだが、人間いつもとは一味違うレナーの顔を見たいという日があるものだと思う。

 そういう時にこの『プリズナー』という映画がスッと刺さるはずだ。なんせ毛穴まで見える。DVDのジャケ画にもなっているのだが、青白いライトで照らしたレナーの顔を接写しながら徐々に引いていく、というカットが冒頭にあって、本当に……本当に毛穴が見える。眉毛の剃り残しまで見えたかもしれない。主役なのでそれ以降もレナーの顔がよく映るし、それもかなりいい仕事をしている。青年期から壮年期に入り、またアクション俳優として容姿や体格が大きく変わってしまった今ではできないであろう、という仕事だ。


『プリズナー』は、アナ(ミニー・ドライヴァー)が別れた夫に電話をするシーンからはじまる。彼らは子供の荷物の受け渡しについて口論をする。会話の途中に、スーパーマーケットでの強盗のシーンがカットインする。コール(ジェレミー・レナー)が銃を片手にアナの息子を連れ去ろうとするところ。それから、青白い刑務所でコールが鎖を外され、面会室へと通される。別の部屋ではだれかが薬を計測している。

 この冒頭部で大体の状況がわかると思う。離婚した男女、死んでしまった子供、死刑執行を待つ男。『プリズナー』は残りの時間、アナは子供の遺品を満載した車で刑務所へと向かい、コールは牧師との対話を通して救済が自分に訪れることを否定し、ときおり事件当時の回想が挟まれる。やがてアナはコールのもとにたどり着き、このような会話をする──「ぼくはぼくが奪った君の人生についてずっと考えていた」「あなたの存在がどうしても自分から出ていかなかった」──アナはコールを「赦さねばならない」と言って面会室を出る。アナは子供の遺品を駐車場に置き去りにして刑務所を出ていき、コールは死刑の執行を受ける。

 暗転ののち、犯罪者と遺族が面会をする修復的司法プログラムの実施で再犯率がこれだけ下がりました、続きはWebで、というような文言が流れ、幕切れとなる。


 この結末にはギョッとする方もいるだろう。ちょっと世擦れした向きには、気持ち悪い、理解できない、とすら思われるかもしれない。脚本兼監督であるチャールズ・オリヴァーがどの程度の意思をもってこういう結末を選んだのかはわからないが、ただ、コールと牧師の対話というのがかなりどうしようもない感じで、キリスト教をこんな粗末に扱ってまでこの「被害者による赦し」を推すんですね、へえ、という気持ちになってしまうのは確かである。死刑を執行されるコールには、明らかに磔刑のイメージが重ねられており、言わんとすることは「彼らも社会の被害者です」といったところだろうか。意地悪な見方をするならば、こういう「物語」をその修復的司法プログラムの推進団体が望んでいる、ということなのだと思う。

 まあこういうことには色々な意見があるだろうが、映画自体はそう悪くない。初監督作品らしい気負いが随所に現れていて、野心的だ。その気負いが妙な長回しや見るのが辛くなってくるような顔のアップとして空回ったり繋がりの悪さを生んでいた場面もあるが、例えば異なるカラーフィルターを使って二人を取り巻く厳しさの違いを示した上である瞬間にフィルタの色を入れ替える演出だとかはよくやっていたと思うし、強盗のシーンで文字通り銃に振り回される(本当に引きずり回されているように見える)という演出もちょっと面白い。

 何より、ジェレミー・レナーはお話が求めるだけのナイーブさを一手に引き受け、見応えある演技をしている。特に強盗のシーンでは、そうだね、君みたいな臆病な子が場当たり的に強盗をしたらそういう顔になるよね、と言いたくなってしまうような……変な話、本当に情けない表情を見せてくれる。この次が『ハート・ロッカー』ということを考えると、渾身の弱り顔、とでも評してみたくもなるのでした。