『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』──誘導とダブルミーニングの魔術

「なぜこんな装置を?」と思ってしまうようでは一生スパイ映画を楽しめませんね。スパイ映画はお互いがその点に目を瞑ることを合意した甘い犯罪なのですから。
 とはいえ何か妙なものを見ればその存在理由を考えてしまうのが人間の性であるわけだし、理由があるならまだよくて、世の娯楽作品というものはとかく前後のつながりとは無関係にただかっこいいからという理由で出てくるもので溢れている。そういうのを見ても頭を痛めないでいろというのもそれはそれで偏っていると言わざるを得ない。
 まあしかし世の中よくできたもので、みんなが幸せになれる解決法というものがちゃんとある。要は「なぜこんな仕掛けを?」と思わせなければいいのだ。たとえば、直前にもっとわけのわからない装置を出しておいてそっちに注目させる、とかで……冗談を言っているわけではない。手品のトリックなんかではよく使われる手法で、映画でそれを使ってはいけない法はないのだから。
 こういう魔術が『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』には脚本のレベルから細かい演出にまで散りばめられていて、それがこの映画を豊かにしている理由のひとつだ。
 

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 『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』(以下MIGP)のあと、イーサン・ハント(トム・クルーズ)をはじめとするIMFのメンバーは謎の国際犯罪組織シンジケートを追跡していたのだが、IMFが(というかハントが)危険すぎるという理由によってIMFは解体、ベンジーサイモン・ペッグ)やブラント(ジェレミー・レナー)といったIMFの面々はCIAに吸収されてしまう。一方そのころハントは任務を受け取るためにロンドンのレコード店へと向かっていたが、シンジケートのボスであるソロモン・レーン(ショーン・ハリス)の策略で拉致されてしまう。ハントはシンジケート構成員であるはずの謎の美女イルサ(レベッカ・ファーガソン)の助けでアジトを脱出してブラントに連絡をするも、そこでIMFが解体されたことを知る。ハントはレーンとイルサを追って姿をくらますが、CIAのハンリー長官(アレック・ボールドウィン)はシンジケート自体がハントの自作自演であると断じ、彼の追跡・殺害を命じる。
 

 これが冒頭の流れであり、この時点でかなりの仕掛けが施されている。例えば「どうしてそのような装置を作ったんですか?」という場面があり、それはハントが捕獲されるシーンなのだが、なんせガラス張りの視聴室からガスが充満してきて内側から開かなくなるのである。ソロモン・レーンが仕掛けを取り付けているところを想像すると結構笑えてきてしまうと思うのだが、おそらく観ている間は全く疑問に思わないと思う。なぜなら、トム・クルーズが店員(兼エージェント)から受け取ったレコードをプレイヤーに掛けるとレコード針から映像が投影され任務を読み上げはじめる、というMIシリーズ的には百点だけど冷静に考えるとかなりはちゃめちゃなシーンが直前にあって、そしてそのレコードというのがシンジケートによって差し替えられているので「己の運命を受け入れて死ぬことが今回の任務だ」みたいなことを言ってくるし、ガラス窓の外を見れば店員がソロモン・レーンに殺されようとしているし、ここまでくるともう視聴室にガスが充満するのを見ても疑問を覚えるような余裕はないのである。観る側には白煙でいっぱいになった視聴室に閉ざされたハント、という絵だけが印象に残る。
 続く脱出のシーンでも同じような魔術が使われている。ポールのようなものに繋がれているハントの前に、イルサが手枷の鍵や自白剤を携えてやってくる。彼女は不可解なことをする。靴を脱いで机の上に置く。胸元のボタンをくつろげて、腕を捲る。するとハントは「いい靴だな」「君の靴だ」と褒める……こんな風に、このやりとりはロマンスなんだろうか、と思わせておきながら、直後に大乱闘が始まると、ああ、あの不可解な行動は単に動きやすいようにしたかっただけなんだな、という納得が生じる。
 この、アクションとロマンスの重ね書き状態が脈々と続いていく。例えば、第一幕のアクション・シークエンスであるウィーン歌劇場からの脱出のシーン。走るスピードが速すぎないかとイルサを気遣うハント(ちゃんと体力を残さないと逃げきれないから)。靴を脱がせてちょうだい、と頼むイルサ(靴のまま屋根を駆け下りるわけにはいかないし自分で脱ぐより早いから)。抱き合う体勢での降下に、狭い車内での身体を密着させての持ち物検査(まあ他にやりようがありませんから)……もしかすると一見では全然ロマンスに見えないかもしれない。ものすごくさりげないし、気付いたとしてもどっちがメインなの? という感じなのだ。その答えはその後の展開によって明かされ、また二重状態という要素はストーリー上の重要な主題として顕在化してくる。
 
 ソロモン・レーンおよびシンジケートによるウィーン歌劇場でのオーストリア首相暗殺事件ののち、ベンジーはハントとともに行動をすることを決意し、イルサの口紅型USBに入っていたデータを手がかりにしてモロッコへと飛ぶ。彼らがイルサとともにシンジケートの活動の要となるデータを盗み出そうとする一方で、アメリカではブラントがイーサンたちを助けようとルーサー(ヴィング・レイムス)とともに彼らの行方を追跡し、イルサの正体を突き止める。イルサはMI6のエージェントで、除籍処分を受けた上でシンジケートに潜入捜査をしていた。イルサはMI6長官のアトリーに盗み出したデータと引き換えに復員を願い出るが却下され、またそのデータはなぜかUSBから消去されていた。モロッコで合流した四人がコピーを取ってあったデータの解析をすると、それは英国首相の生体認証がなければ開けないデータだった。四人はロンドンの空港でイルサを待ち伏せし、イルサはイーサンとの対話の中でアトリーの裏切りに思い当たり、二人で全てを放り出して逃げることを提案する。ベンジーがシンジケートに誘拐され、ソロモン・レーンはイーサンにデータを解錠して引き渡すことを要求する。
   
 ところでミッション:インポッシブルは三作目くらいまではイーサンがほぼ独力で頑張って世界を救いながらヒロインとよろしくやったり身を固めたり、という話である。それが何の心境の変化か四作目のMIGPで桃太郎ばりのパーティ活劇へと変貌を遂げ、雑念だらけのオトモたちがわちゃわちゃしたり喧嘩したり反省したりしている間にイーサン・ハントのキャラクター性はかなり後景に退いていき、プロローグとエピローグで元妻ジュリア(ミシェル・モナハン)とのその後が簡潔に語られるくらいである。『ローグ・ネイション』では更にそれが加速しており、もはやひたすらに善性を体現した人、もはや菩薩という境地である。その上、MIは一作目からイーサンがIMF長官に裏切られるという衝撃的なスタートを切ったシリーズで、確か三作目でも味方から裏切りを受けているし、『ローグ・ネイション』も自国であるはずのアメリカから追われている身である。
 このことを踏まえると、イルサがイーサンに二人で逃げようと提案する理由がより理解しやすい。自分たちは結局使い捨てで、理念に共感して入ったはずの組織にも、結局は嘘をつかれて滅茶苦茶にされるのだから、もう自分たちだって好きにしたらいいではないか……ロマンスの上に重ね書きされた言い分はこういうことであり、そしておそらくこの主張はある程度レーンのものとも重なっている。この問いかけに答えを出す前にベンジーが誘拐され、イーサンたちはベンジーの命を守るために首相を誘拐することを決意する。しかしこの映画はイルサの言葉に対して、そしてイルサとイーサン、ひいてはレーンそれぞれの違いに対して、素晴らしい解答を用意している。(以下オチバレ) 
 
 ブラントはハンリー長官をロンドンに呼びつけ、首相が参加するオークションイベントへと向かう。二人はアトリーと合流しイギリス首相を交えて対話をするが、首相がシンジケートの実在性を認めるや否や、イーサンはアトリーのフェイスマスクを脱ぎ捨てて首相に麻酔銃を撃ち込む。アトリーひいてはレーンの引き起こした事態を悟った首相の協力でデータを解錠すると、それはシンジケート計画のために各国に分散されて保管された大量の活動資金の銀行口座番号だった。そうこうしているうちに本物のアトリーがやってきて、麻酔銃を撃ち込まれると自分がかつてシンジケートを組織していたことを認める。首相はその場にいる全員に向けて『アトリーが私を撃ち、ハンリーがアトリーを撃って私を救ってくれた』という「真実」を告げる。
 イーサンがデータを“持って”レーンに指定されたテラスカフェへ向かうと、人間爆弾にされたベンジーがイルサとともに座っている。しかしレーンがデータの引き渡しを要求すると、イーサンは自分自身が口座番号を全部記憶した上でUSBを破棄したことを告げる。レーンはベンジーの時限爆弾を停止して解放したのちイーサンを生け捕りにしようとするが、逆にイーサンの策略により捕まってしまう。イルサはイーサンと別れて国外へと逃げることを選択する。IMFはハンリーの心変わりによってその有用性が認められ、彼を長官として復活することとなる。
 
 ソロモン・レーンを捕縛するシーンはすごい。なんせイーサンを追ってビルの穴から降りたら透明な防弾アクリルで出来た箱に閉じ込められてしまう。無茶苦茶だ。よく見るとイーサンがベンジー奪還に向かったあたりからブラントとルーサーがずっと箱を組み立てているのだが、初見ではドリルで透明な板に穴開けて何作ってるんだろうと思っていた記憶がある。まさか箱を作っているなんてつゆも思わなかったし、何でこんなものを作ったのかなんて考えられなかった。箱に入ってからがとにかく怖いからそれどころじゃない。暗闇から白く浮かび上がってきて箱の四方に近づいてくるIMFのメンバーたち。内側から銃を撃っても殺せない。死者もしくは幽霊のイメージを重ねられているように見えるし、実際に彼らはある意味で「国から葬られた存在」である。「君あるいは君の仲間が捕まり殺されても、当局は一切感知しないものとする」という言葉を思い出してほしい。

 そして、全てが首相の放った「真実」で丸く収まり、アトリーもあっさりと全てを認めてしまう、この呆気ないラストがまた何とも凄まじい。あまりに政治的な所作、国を作り国を守る言葉……これこそがイルサをはじめとするエージェントたちを疲弊させてきた原因である。だから、解錠のパスワードとして選ばれ、首相の口を通して引用されるキプリングの“IF”は、複雑な意味を持っている。イーサンへの激励のようにも取れるし、「国によるエージェントへの裏切り」というテーマをここまで見せたあとではどうしようもない皮肉のようにも響いてくる。
 しかしやはりこれはイーサンにとっては激励なのだ。IMFの名を高らかに宣言するラストが証明している。イルサとイーサンの違いはそこで、だからイルサはイーサンにハグをひとつして去ってしまう。「私を探せるわね?」という言葉をひとつ残して、イルサとイーサンのロマンスは、共感に基づいた友愛という形で幕を閉じる。

 
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 ものすごく長くなってしまったけどとりあえずは監督兼脚本であるクリストファー・マッカリーの話から。
 たぶん一番あなたに「あーね」と思ってもらえる確率の高い紹介の仕方は『ユージュアル・サスペクツ』で脚本を書いた人、だろうし、第一著者ではないのだが『オール・ユー・ニード・キル』やMIGP(ノンクレジット)などにも脚本で参加している。監督作としては『誘拐犯』や『アウトロー』がある。ちなみにかの悪評高き『ザ・マミー』にも脚本で参加しているのだが、どちらかというと製作がにっちもさっちも行かなくなったからヘルプで呼ばれた、という経緯らしい。
 私は上に挙げた作品をほぼ全部観た。印象は、よく勉強していて頭が回る映画オタク、というものだろうか。ここまでデキる人は珍しいと思いはするのだが、反面かなり楽しみ方が難しいものが多い気がする。脚本にしろ監督にしろ、彼はオマージュが大好きなのだ。だから、何のジャンルのどの時代におけるコードを援用しているかが一瞬で掴める人にとっては格別のご褒美だけど、そうじゃない人は始終首を傾げてしまうのではないか、みたいな感じがする。
 MIRNがそうならなかったのは、監督が言うには「誰にも分かってもらえない拘りとか妙な長回しとかを避けたから」というのだが、それ以上に脚本を書きながら撮ったこと、それも俳優陣と脚本のいろいろなことを話し合いながら書いたことにあるのではないかと思う。レーンは途中までイーサンに殺される予定だったが、トム・クルーズと話し合って「やっぱりイーサンはレーン殺さないんじゃない?」となってああなったらしいし、イルサとイーサンの別れも「キスして別れるかどうか自分で決めていい」とレベッカ・ファーガソンに伝えた結果ああなったのだそうだ。その結果、トム・クルーズレベッカ・ファーガソンもとても一貫性のある演技ができているように思えるし、サイモン・ペッグやジェレミー・レナー、そしてヴィング・レイムスもある種コメディリリーフとして楽しそうにわちゃわちゃしている。ファムファタルと親友と委員長と幼馴染がクラスで一番かっこいいトム・クルーズを取り合っているみたいな構図で楽しい。特にイルサを人質になって助けを求める女性にしたくなかったという理由で人間爆弾役に選ばれたサイモン・ペッグ、当該シーンがものすごい涙目で、本当にかわいい……。ショーン・ハリスも一種の怪演とひび割れた声が相まってめちゃ怖い。

 あと細かいレナーの差なんですけど、MIGPのブラッド・バードは顔の正面に光を当てたり明るめのフィルタを入れたりしてつるつるした印象なのに対して、マッカリーはサイドが明るくなるようにして正面の肌の質感を際立たせて、色調もちょっと暗めな感じ。あなたはどっちのレナーが好き?