『ハート・ロッカー』──男のロマン、あるいはへばりついて取れない人間性

☆かんたんなあらすじ
 イラク戦争はバクダッド。名誉の戦死を遂げた同僚の代わりにおれたちの爆発物処理班に入ってきたのは素手で爆弾を触ったり連絡無線を切ったりしてくるやべ〜戦争ジャンキー(ジェレミー・レナー)だった! おれたちの兵士生命どうなっちゃうの〜⁉︎ 次回「フレンドファイアは突然に⁉︎」お楽しみに!

☆くわしいあらすじ(オチバレ含)
 イラク戦争下のバグダッド郊外、2004年。アメリカ陸軍の爆弾処理班は現地での選挙妨害を目的とした爆弾テロを防ぐため任務に当たっていたが、ある日の爆発事故で防護服を着ていたにもかかわらずひとりの軍曹が亡くなってしまう。同班のサンボーン軍曹(アンソニー・マッキー)とエルドリッジ技術兵のもとには新しくジェームズ軍曹(ジェレミー・レナー)が赴任するのだが、ジェームズはいきなり連絡用無線を外してサンボーンの命令を無視、勝手に爆弾に近づいてそれを素手で持ち上げたり現地のタクシー運転手をどかすために銃をつきつけたりするのでサンボーンとエルドリッジは余計なストレスを溜めていき、自分たちが死ぬ前に爆発に巻き込んで彼を殺したほうがいいのではないかと思い至るが、そんななか偵察任務で訪れた砂漠で現地勢力との交戦が始まってしまう。友軍兵が何人も戦死し、狙撃スコープを介した睨み合いが続き、戦闘慣れしていないエルドリッジはパニックを起こしてしまうが、ジェームズはそんな彼に的確な指示を加え、彼らは生還する。この一件で意気投合した彼らはジェームズの部屋で泥酔上裸プロレス大会を催し、アメリカに残してきた恋人の話になると、ジェームズは別れていないと主張する女が自分の家で赤ん坊といっしょに住んでいるのだと遠い目をする。ジェームズは米軍キャンプの前に張られた露店で売り子をしている現地の少年“ベッカム”を遠くにいる自分の子供に重ね、彼から違法DVDを買ったりサッカーで遊んでやったりしていたが、ある日の任務中に少年の死体を使った人間爆弾を見つけてしまう。ジェームズはそれは“ベッカム”の死体であると主張し、サンボーンが止めるのも聞かず少年の腹から爆弾を取り出し死体を持ち帰ると、基地に帰るなり自分の“別れていないと主張する女”に電話を掛け、彼女と子供の声を聞くと何も言わず電話を切ってしまう。露店の主人から“ベッカム”の不在を聞き出したジェームズは主人に銃を突きつけワゴンに乗り込むと、彼はジェームズをとある民家に置いて逃げ去ってしまう。民家に住む現地の大学教授は英語話者でであり意思疎通は取れたものの、“ベッカム”のことは何も知らなかった。ジェームズは基地に戻り、検問をどうにかこうにか潜ると別の爆破事件の現場に駆り出される。ジェームズはサンボーンとエルドリッジとともに実行犯を追い、エルドリッジが途上で負傷してしまうものの実行犯と思われるものをなんとか射殺し、帰投したジェームズはシャワーブースに戦闘服のまま入って嗚咽を漏らす。しかしその翌日、負傷のため帰国するエルドリッジの見送りに向かうジェームズはその途中で“ベッカム”に声をかけられるのであった。しばらく経って任期終了2日前、身体に時限爆弾を巻きつけられたという現地男性の救助を行うことになり、努力も虚しく男性は爆死してしまったが、防護服を着ていたジェームズは生還する。帰りのワゴンでサンボーンはジェームズにおれも妻との間に子供がほしいがもう自分には無理だ、ということを漏らす。その言葉を裏付けるかのように、ジェームズはアメリカに帰国すると、妻に話すことといえば戦場のことだし、妻と別行動をしていたスーパーマーケットではシリアルフードの棚の前で立ち尽くすのである。彼は宝箱を模したおもちゃで喜ぶ赤ん坊に、お前くらいの歳のときには色々なものが大切だったがいまはもうひとつしか残っていない、と言い残し、満足げな表情を浮かべながら戦場へと戻っていく。

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 これが彼らの日常である、と言わんばかりに任務のシーンが繰り返され、その一つ一つに見ている側にも爆弾解除や交戦のスリルが感じられるような演出が為されている。爆発や被弾に対する恐怖を煽る演出はもちろん、市街地で任務のシーンでは現地住人の胡乱なまなざしや米軍人に向けてビデオを回す男などが頻繁に映される。どことなくスリラー映画のようなつくりをしており、イラク描写が不適切だと言われる原因の一端はおそらくここにあるのだが、こういった構成によって任務をある種平坦で散発的なものに映すことで、登場人物たちの動きが浮き上がってくる仕掛けがあるように見える。言い方を変えれば、ドラマの流れは登場人物たちの人間関係や心情、そしてジェームズの描写によって作られていき、任務のシーンはそれらを引き起こすトリガーのような役割をしている。
 『ハート・ロッカー』におけるジェームズはもう物語の開始時点ですでに「戦争ジャンキー」として完成されきっている人間であり、作品を通して描かれているものは彼の変化ではなく反応である。例えば“ベッカム”とその失踪に対する彼の一連の行動ははるか彼方のアメリカにいる幼い息子を思い出しての反応であるだろう。これはすこし言い過ぎかもしれないが、砂漠での交戦シーンにおけるエルドリッジやサンボーンに対する献身的態度にはある意味では子育ての代償行動のような雰囲気があるように感じられる。しかしそういったことは結局、自身には何の決定的変化ももたらさない事象である。ここに映っているのは戦地に在りて故郷の妻子を想うという「男のロマン」なのか、それとも動物じみた戦争ジャンキーに人間性の残滓が引き起こした反応なのか……そういう微妙なラインをビグローとジェレミー・レナーはうまく描き出していると思う。かつて低予算映画やニュース映像などで使われたスーパー16ミリカメラを全編で使用しているということだが、そのざらついた感触はズームアップの多用や手持ちカメラ特有のブレも相まってこれでもかと役者の顔を動物的に見せてくる。ドキュメンタリー調、とはこの映画を評する時によく言われる言葉だが、私はどちらかといえば動物ドキュメンタリーなのではないかという気がする。
 もちろん泥酔上裸プロレス大会をはじめ女性が一切出てこないのはホモソーシャル的なものの表現、と見る方が自然であるとは思う。本作は2008年に公開され、アカデミー賞において9部門にノミネートされ6部門の賞を掻っ攫った代物なのだが、まあその当時はいろいろと論争が起こったようであるし、今ならもっと大変なことになるのではないだろうか。当時の議論の内容はと言えば、戦争の描き方が現実に即していないという軍人側からの苦言(ジェンダーバイアスなのでは?)、アメリカが他国へあれこれすることについての内省的視点があまりに欠けていること、現地人描写の“不適切”さ、など様々だが、まあその辺はご紹介するに留めておく。
 しかし私がいちばんハラハラしたのは「この男性描写は大丈夫なのか?」というところだった。もちろんもうこの作品をご覧になっている方は色々な意味で大丈夫じゃないことをご存知だろうし、クソ長い方のあらすじを読んでいただけた方ならやばみを多少なりとも感じていただけたのではないかと思う。ロケ地と低予算の相乗効果でジェレミー・レナーさんの脇に汗染みが出来ていたりするし、泥酔上裸プロレス大会は本当にあるんだ……ジェレミー・レナーの胸毛が見える……あと血で詰まった弾倉に唾つけて擦れっていうのは……つまりはそういうことなんですかビグロー姐さん……おれたちが架空の男性を辱めている間に姐さんは実在の男性を……
 まあとにかくこの作品でジェレミー・レナーは全米映画批評家協会賞で主演男優賞を獲得して一躍スターダムに登ったわけでございます。アンソニー・“ファルコン”・マッキーと共演しているのもいま見ると趣深い。