俳句集

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 主に2020年〜にTwitterで作っていた俳句です。

 その時見た強いワードに取り合わせの良さそうな季語をつける、という手法のものが多いかもしれません。エッチするならマイティ・ソーって何? と思ったら『スパイダーマン ホームカミング』にある台詞だったんですね。作った本人が忘れてどうすんの。

 画像化するにあたってちょっとずつ手直しをしています。

 

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 私は、Twitterをやめたほうがよいのかもしれない、と思うようになったので、これからしばらくviolence_ruinのアカウントを放置いたします。

 特に何かがきっかけとなったわけではなく(ほんとに)、この1年半くらいずっとそうするべきではないかと思い悩んでいたのです。

 だからこれは、ようやく結論を出すことができたというお話です。

 

 「丑の刻の平安京に羅城門が顕現し、下人が侍を鞭打ちしこと」がちょっとバズって、たくさんの方との交流がはじまったとき、私は無邪気に喜びました。

 1年経って、「チャイコフスキーの亀頭」が同じように拡まって、私はいま、とても罪悪感を覚えています。

 

 私は、自分のことにしか興味がないのにみなさんと交流していたのです。

 私は、みなさんの作品のことがわからなくて、どう楽しんだらよいのかわからなくて、大半を読めていないのです。

 そこはもう、趣味はクラシック音楽卒業論文チェスタトンと、オルタナティブなものとはとことん相性の悪い人生を送っている私ですから。

 同人誌を買うお金がないとか、職場で関西人たちの舵を取っていたらなんだか疲れてしまって文字を読める状態ではないとか、そういうのがなくとも私は多分……

 私はもう、顔の半分でみなさんの賞賛を聞けてうれしいと思いながら、もう半分で聞けば聞くほど申し訳ないなと思うような状態なのです。

 光るマゾの侍に人生をめちゃくちゃにされた、というのは間違いで、これは全て私のほうに誠意が全くないために起こってしまったことなのです。

 

 暴力と破滅の運び手という筆名を捨て、作品をインターネット上から全て消去するということを、私はこの1年半何度も何度も考えました。あくまでも、軽い調子で、本気ではなく。

 だって、どれも私にとっては、数日の作業で書いたものですから。消すのは容易いことでしょう。

 膨らんでいく「暴力と破滅の運び手」にまつわるイメージを見ていくことは少し愉快ではあったのです。

 本気で考えたのは今日が初めてです。

 消さないことにいたしました。でもそれは、私って本当に恩知らずで──こんなに愛していただいているのだから、消すのは「作品」にとって不幸だろう、と思ったからです。

 あなたたちのことを、私は考えることができないみたいです。私にとっては「ひとりあそび」ですから。

 

 昔からの友人と通信するものとしてだけ運用しているアカウントで、Twitterは楽しんでいこうと思います。

 このブログはFacebookのように、旅先からの絵葉書のように、続けるかもしれません。

 小説はカクヨム電子書籍、あるいは同人誌といった形で続けるかもしれませんし、気が変わったら筆名も発表先も変えるかもしれません。

 レベッカ・ファーガソンのように「私を見つけられるわね?」と言えるほど、私は、「暴力と破滅の運び手」という名前なしに私の作品を判別できるとは、思いません。お下品な要素を抜いたら、私の小説はきっと個性もなくつまらないものになるでしょうから。

 私がいまご依頼いただいている2次創作の再録集やアンソロ寄稿を終え、それでもまだ「暴力と破滅の運び手」名義で小説を書いていたとしたら、それは、結局のところ誰かに見つけてもらいたいと思う心がまだあったのだと思っていただいても構いません。

 それかそうでなければ、単に今日書いたことが2日くらいでどうでもよくなってしまったか、そのどちらかでしょう。