-20230321

原稿がどうにもこうにもうまく行かなくて、ようやく15000字くらいのものが書き上がったけれど、そこまでに40000字くらいボツにしていた。2ヶ月でこんなに書いてボツにしてたんだ…とちょっと不思議な気持ちになった。

1月中が締切で、1万字だし2週間もあったらいけるでしょうと思っていたら信じられないくらいまとまらなくて、2ヶ月が経っていた。海原雄山としての自意識も薄れていき、間にはエ賞の審査や仕事などもあり、やがては原稿が終わっていないということが日常生活の一部になってしまった。誕生日付近には箕面でレ・ヴァン・フランセを観たり、東京でバレエを観てともだちんちに泊まったり、餃子パーティーをしたりした。

フロイトの時代に生きていたら症例として取り上げられそうなのだが、私は幼い頃から部屋を汚くして作業に不向きな状態を作ることで作業から逃避しようとする傾向がある。コメダの回数券を買ったりしたけれど、最終的にはシーシャバーに行かないと進まないという(財布が)やばい強迫観念を持つようになってしまった。

シーシャバーは一回行くと演奏会が一度聞けてしまう、と自分に言い聞かせているが、今日も友達の家から帰る途中のシーシャバーの入口まで行ってちょっと思案してしまった。やばい。あと行動圏内に演奏会のチケット価格より安いシーシャバーができてしまった。やばい。

関西のプロオーケストラの背後で歌う合唱団のひとつのオーディションを受けたら合格したのでしばらくやってみることにした。市民オーケストラはなんかやればやるほどVIBESが下がってくるのでしばらくいいかという感じになった。

私はクラシック音楽を採点をするようには聞ける(そしてある程度はその採点が自分の演奏に対しても働くから私が本来持っているクソの運動能力からはおよそ考えられないほどマシな演奏をすることができると思っている)が、それって音楽を体験しているということになるのだろうか。私は音楽を楽しんでいるのだろうか。……ということを考えるきっかけがあった。

審美は体験なのか?

なんかやあねと思うことがたくさんあるのもあって、なんとなく、楽しんでいるという状態に至るまではとにかく不特定多数の人と楽器を弾くことから遠ざかったほうがいいな、と思った。

合唱がいいのは、私にはぜんぜんよくわかんないジャンルであること。審美が働かない。大きい声出せばいいんですか? でも、毎週きちんとした先生が来て教えてくれるからすごいし、本番の指揮者はためらいなく好きと言える方だったりするので、楽しみ。

そういう人生の機微はありつつ、原稿は初稿を提出して修正に入りました。よかったね。