珍しく(と言ってはいかん気がするのだが、珍しく)小説をたくさん読んだ。
◎ニー・ヴォ『塩と運命の皇后』
中華FTっぽい世界観の中編が2本入っていて、どちらも「正しく語られ/記録されなかった女性の物語を語りおろす」という構造を取っている。人名やそれぞれの国は「中国っぽい」「モンゴル~ロシアっぽい」等とソースがはっきりしている分、主人公たちの寺院が明白にそのまま英語っていうのが結構いい。多数言語がそれ自体もつ暴力性とか英語話者が語る「歴史」とはみたいなことへの目くばせなのかな。へーって思った。
◎アンジェラ・カーター『夜ごとのサーカス』
ニー・ヴォが影響を受けた作家として解説に挙げられていたので読んだけど、これはちょっとすごいと思う。フェヴァーズとリズは(いろんなことを隠そうとはしているけれども)ウソは語っていなかったのだ、というのが章を経るごとにわかっていく仕掛け。白眉は第2章のサーカスのくだり。加藤光男(訳者)によればフェヴァーズの感情教育を代替する役目でもあるというミニヨンの挿話が一番よかったような気がするのはちょっとどうなんだろうかという気もするが。
フェミニズムの文脈の中でどう読まれているのか/どういう位置に置かれるのか、というのがちょっと気になるんだけど(2020年に日本語で作品論が出ているとのことなんで研究書に当たってみようと思います)毛羽毛羽しいゴシック要素にあふれていながらも、ものすごく極端なことは言っていないという感じで、それ故に今でも古さを感じずに読めるという印象。
◎荒木あかね『此の世の果ての殺人』
Falloutのメインクエストとサブクエストを延々こなしているような――とか言っても仕方ない気がするけど(作者のイメージソースはおそらくその辺りではない気がする)、絶望的な状況を伝えるイメージの選び方がかなりよく、そこで最後の日々を「善性」をよすがにしながら生きている人々のエピソードにはちょっとかなりグッとくるものがありますね。
でもいちばんいいのは主人公がある地点を目指す理由と、謎とはされていなかったひとつの謎が明かされるラストかな。
◎宮内悠介『カブールの園』
カリフォルニアにあったという日本人収容所の挿話はとても印象深く、登場人物がいろいろあった末にいま自分の立つ場所を「カブールの園」だ、と肯定する流れについては特に何の異論もないし、隙がないよう構成されておりよかった。
一方で、初出から8年が経ってここに書かれている技術がつぎつぎと現実になった「未来」を生きてみると、平等をもたらすと思われていた技術は実はより格差を拡大させるものだったではないか、みたいな気がしてしまって、ほんとに? そこでいいの? という気持ちにならないでもなかった。
「半地下」のほうは「あたしの田舎(栃木)の小学生の悪事ってせいぜい万引きと自販機蹴ってジュースをいっぱい出すやつくらいだったけど、アメリカの小学生ってドラッグをやるんだ…」というショックを受けてしまった。栃木はやっぱり田舎だなと思った。
「カブールの園」と同じような懸念をテクノロジーではなく歴史(学)について思った感じ。ここ数年とみに〈国(領域国民国家)〉のもつあさましい側面とか恐ろしさを感じずにはいられない状況でこれを読むとなんというか……そっちはいい解決には思えないんだけど、みたいな気持ちになるというか。
あるいは「地域」の人間は意外と『「日本」なんて「東京」の人間がやってることでしょ』くらいにしか思ってなかったりするしね、みたいなことを思い出したり(スロヴァキアの話とかでちょっと示されていたとも思うけど)。
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すさまじい延滞癖かつ怒られ回避癖があるがゆえにそういう状況になっていたのだが、本を返却して本を借りられるようになった。
家にある積み本から消費していきなさいよ、という気もするが、基本的にあんまり新しい本を買わないので、最近(ここ20年くらいを指す)流行ってるものを味見しようかな♪ みたいなモチベーションに対して私の本棚は完全に無力なのであった。
最近はミステリーが面白そうだなと思って、道玄坂上ミステリ監視塔からちょっとずつ読んでいけたらいいんだけど……ちょっとずつ読んでいってたら一生追いつけない気がするんだよな……。ミステリってどんだけ新刊出てんのよ。私もミステリをやっておけばよかったなってここ3年くらいずっと言ってる気がする(そして、やっていない)