火の家

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 みなさん! 私のことがおわかりになるあなたがた。あなたがたに私はようやくお別れを言うことができます。
 でも、私はあなたがたのためにこの文章を書いているのではありません。
 ……そこのあなた。お前は誰か、と問いたそうでございますね。ああ、あなた、あなた、あなたあなたあなた……
 私を思い出してくれ、とは言いますまい。
 私を忘れてください。
 名前を無くした人間として、私は言うのです、あなた、どうか私を忘れてください、と。

 1(主観による要約)
 アホみたいな経緯で騙し討のように契約させられた家でシェアハウスをしているという状況が嫌になったのだが、自分以外が契約を引き継いでくれず退去もさせづらいのでを住み続けざるを得ない状況になっている。
 
 2(状況)
「え、あんた一番長く住むでしょ…手数料(賃料の一ヶ月分)払うし、家の契約者交替してもらって出ていきたいんだけど…」「信用が契約とか借入とかできない状況なんで無理」「え? もしかしてそもそもそれで私にこの家契約させたわけ?」 
 
 3 (感想)
 令和のにごりえ樋口一葉)?
 無料に釣られて契約したっていうところと、その時点で私が契約をする以外に建物を借り続ける方法がなかった、ってところだけは確実に言えるけど、あとは私の被害妄想って言われたらまあ……
 でもね、不本意な場所に留まらされ続けるってつらいね。私、移動の自由ないんだね。

 4(サイドエフェクト)
 何か起こったらいままで使っていた筆名を半永久的に放棄することになるかもしれない。なぜなら同居人たちに知られているから。 
 さようなら。あなたがたがもう私と出会わないことを祈ります。

 5(症状)
 自律神経失調症の身体症状がちょっとずつ自覚されつつある。前これに罹ったのは、前の職場を出ようとして藻掻いていたときだった。
 ここに居たくない、という気持ちが身体をおかしくさせるのは、ここにいざるを得ないと身体が暗示させてくるからなのかもしれない。
 
 6(気持ち)
 全員を即座に路頭に迷わせる気概があるなら私は即座に退去ができる。だが、(私をここに沈めた張本人はともかく)別にそこまでの感情を他の住民には持っていない。色々な住居者がいる。特に学生たちは――私を様々なことで悩ませ、それが爆発してしまったのだが――かわいそうだ。

 7(破壊衝動)
 破壊的な妄想が止まらなくなることがあり、この数日間放火と自殺はちょっと魅力的なソリューションだった。日夜を問わず思考がそちらに行ってしまうのでよく首を振っていた。

 8(夜の川)
 早い時間に家に着くのがいやで、川沿いを歩いて帰った。水の増えた冬の夜、川は街灯を反射してとても美しかった。全く魅力的ではなかった。冷たそうだった。足先から入って、全身を浸す想像した。私の心臓は痙攣するだのだろうか。あんな浅い川でも、手足が冷たさに凍れば溺死するのだろうか。
 時折立ち止まって、川を見た。この街にうんざりしていることに気付いた。あれだけ帰りたかったこの街のことが、すっかり嫌いになってしまった。
 私は歌を練習しながら帰った。有名なアリアを、ヴォカリーズで歌った。

 どこへ、どこへ、どこへ行ってしまったんだ
 私の輝ける青春の日々よ……
 
 失ったものを悲しむことができる詩人たちを羨ましく思った。
 私が立ち止まるのは、安心して住める家がなくなってしまった、ということを思うからだった。

 9 (セブンイレブン
 お昼をしっかりと食べる気がしなくて、有田みかんのフルーツサンドと小さいプラ容器に入ったサラダ惣菜を買った。しょっぱいものを先に食べたいのだが、気付いたらフルーツサンドから食べてしまう。きのうはかろうじてフ→サ(たことブロッコリーのバジルソース和え)→フだったのだが今日はフ→フ→サ(コールスロー)だった。
 フルーツサンドはおいしいのでうれしい。
 でも、透明プラ容器に入ったあのシリーズを食べると毎回、妙にうまい、という気持ちになって、なぜか悲しくなる。
 
 10(怒りが持続しない)
 私の怒りは持続しない。この件に関してもわりとこの数日ギャーギャー騒いでいたら落ち着いてきた。許してはいけないことを泣き寝入りをしたりなんとなく許し続けてきた末に今の私があると思うのに、こんなことでさえ私は慣れてしまうのかと思うと恐ろしい。

 11(昔書いた小説のこと)
 私の小説の大半は、変態性の仮面を外してしまえばいつも、自分の望みを自覚できていない語り手のもとに淡い救いがやってくる話だったと思う。
 
 12(読書会)
 答えなんかないんじゃない?と私が言ったら、読書会の主催をしていた人がすこし苛立ったようにそれを否定して、皆が頭を悩ませながら謎を解き始めたのを思い出す。
 答えが見つかったのかどうか、私はよく覚えていない。
 
 13
 法テラスや相談センターの使い方を教えてもらった。
 スタバギフトカードをもらった。
 友人と割り勘でお寿司を食べた。
 節税対策で資金を援助してくれると言ってくれた。
 お茶に誘ってくれたり、チャットで話を聞いてくれた。
 法テラスの弁護士のお兄さんはやさしかった。
 私の、ノリノリで無料の波に乗った以上はそこまで正当性のない怒りは多分、充たされることはないけれど、風邪を引いた時みたいにちやほやされているような気がする。
 すごく救われました。ここから出ることはできないのかもしれないけれど、ありがとう。
 
 14
 私がこんなことになった理由をまだ教えていない住人たちが、鍋を作って、ギターを弾いて、私を待っている。