永遠のひとりあそび

 セックスに関しては持たない倫理感を、私は音楽に対して持っている。
 プロもアマチュアも関係なく、つぎつぎに相手を変えて合奏をする人を見ると私は、軽薄で、誠意に欠け、淫らだと思い、軽蔑する。
 セックスに関しては、もしあなたがアプリで捕まえた男と夜ごと寝ていようと、クルージングスポットにいようと、トイレでたまたま隣の個室に入った男としていようと、一向に構わないのに、音楽に関しては許せないと思うときがある。

 それは多分、そういう人たちの演奏が、アンサンブルに対して誠意がなく、何をされても応えず、伴奏に対して感度が低いか勝手に盛り上がるか暴発するか、と聞こえることが多いからかもしれない。

 

 似たようなことを小説に対して思わないのは、小説の場合、書く瞬間と読む瞬間が別だからだ。

 重なり合わない時間ほど心地よいものはない。

 私が書いたものをあなたが読むことを、私は考えずにいられる。

 私はあなたの感想を気にしない。

 私は私の小説がどう読まれようが構わない。途中で読むのをやめようが、貶そうが、私にはどうでもいい。私に欠片もない忍耐や誠意をあなたに強いることもない。

 

 音楽は全てが真逆だ。

 コンサートホールにいる時間というのは、9割5分の演奏会において、コンサートホールに入ったことを後悔する時間に等しい。一度はじまってしまった演奏に、途中で席を立つということは難しい。

 重なり合わなければならない。呼吸、肺から指先までの身体の制御、リズムとテンポ……霊感。1つの曲が始まってから終わるまでという、止まることの許されない時間を、共有すること。

 聴くにしろ、誰かと演奏するにしろ、その時間をどう使うかということについて意思の疎通ができない人間とはやっていけない。

 あまりに息苦しい。

 小説とはなんてすばらしいのだろうと思う。

 永遠のひとりあそび。好きなときにできて、いつでもやめられる。

 それがどんなにかすばらしいか。音楽にほどほどに見切りをつけて小説の読み書きを覚えたことが、どんなにか賢明だったことか。

 そう思う一方で、私が求めるのは音楽であって、小説ではない。

 私にとって、しないと気が済まないものは、合奏であって、小説ではない。この人は絶対、と私が信じる演奏者のコンサートには万難を排して行くけれど、本は数年読まなくても多分、構いもしないだろう。

 

 演奏は趣味で続けながら、音楽に関わる仕事をしている。今のところ、他の仕事をしてみようとは思わない。

 私にとって小説のすばらしさとは、音楽でないというただその一点に尽きる。