交遊範囲が広いね、と言われることがある。
あんまり考えたことはなかったけど、客観的に見たらそうかもしれない。大学時代の友人と遊んだり、市内で小説を書いている人と遊んだり、朗読のイベントに出かけたり。前の職場の人たちとも結構ひんぱんに会っている。じつのところ私の余暇は、そういう時間にほとんど使われている。私に成すべきことなんてそうないのだ。誘われたら遊びに行ってしまう。
そういう今からしたら想像もできないことかもしれないが、私はあまりひとと遊ばない子供だった。そもそも他の子どもとあまり会わない生活をしていた。
私の家は、3親等以内全員公務員か教師をしていた。”公”の稼業のおそろしいところは、うちの評判=学校や自治体への評判になることだ。つまり、他所様にはどんな暮らしをしているのかあまり知られたくないというものである。おそらくそういうわけで、ほかの子どもたちとうかつな交流をしてほしくなかったのだろう。
姉と、たまに会ういとこたち。私の遊びの世界は、それでおしまいだった。
そこに入ってきたのがマリオだった。
姉のお下がりが詰まったおもちゃ箱に、マリオのぬいぐるみが入っていた。おそらく、父かその友人がUFOキャッチャーで取ったと思しき、安普請のぬいぐるみだ。
二頭身のマリオは、飛ぶ格好をしている。目はプラスチックで、体や帽子は柔らかい布。マントや口髭、オーバーオールなんかはフェルトで出来ている。
なぜ私がそれをひと目で気に入ったのか、私もよく覚えていない。
漫画で先に出会っていたのかもしれない。コロコロコミックで連載されていた沢田ユキオの「スーパーマリオくん」を買ってもらったのが、私が初めて所持した漫画だった。それともコロコロコミック本誌だったろうか。
とにかく、私はその日からマリオと共に過ごした。
遊ぶのも一緒。寝るのも一緒。どこかに預けられるときにはマリオを持っていった。私はよく、人形遊びをした。ヨッシー(ではなく本当はただの蛇のぬいぐるみなのだが)といっしょに、「スーパーマリオくん」のようなギャグを演じさせていた。
そしてそれから少しして、父がゲームのソフトを買ってきてきれた。「マリオパーティ」や、「マリオゴルフ64」「マリオテニス」。姉や父ともよく遊んだけれど、ひとりでもよくやった。
思う通りに動いてくれる存在。
何度でも生き返りチャレンジをさせてくれる存在。
それが私にとってのマリオだった。
とはいえ、マリオあるいはニンテンドーとの蜜月はあまり長くなかった。
いま思えばそもそも私はあまりアクションゲームが得意ではなかった。運動神経と根気の欠如というのはゲームの選択肢すら狭めるのである。それから、私が音ゲーに熱中しはじめたことや、父が突然PS2を買ってきたあたりで遊ぶゲームがドラクエ等にシフトしたこともある。そもそも我が家はゲームキューブを所持していなかったのである。アドバンスで「マリオカートアドバンス」をやったりはしていたけれど。
人形遊びもあまりしなくなって、ある日マリオのぬいぐるみをほかのものといっしょにリサイクルショップに売った。
そのときは、もう人形遊びなんかしないだろう、と思ったのだ。
私は大人になったのだ、と思っていた。
*
あなたは『スーパーマリオブラザーズ ピーチ姫救出大作戦!』というアニメ映画をご存知だろうか。昭和の御代につくられた日本のアニメ映画だ。
私はいわゆる文化会館にしか映画が来ない地域に住んでいたのだが、なぜかそれが「こどもの日映画」的な二本立てで掛かったのである。併映は……ゾイドかなんかだったかな。
おそらく前述のソフトや「スマブラ」なんかがめっちゃ流行っていた時期だったからだと思う。
マリオ好きのガキ様だった私はもちろん連れて行ってもらい、子どもたちと一緒にそれを見た。
しかし感想はと言えば、「なんか……思ってたんとちゃう!!」だったのである。
声が違うし、なんかちょっとダサいテーマソングも掛かってほしくないし、何よりガキ様の認識ではマリオは自分が結婚したいからピーチ姫を探しに行くような品性下劣な輩ではないと思っていた。マリオ様はこんなこと言わない……! マリオ様は私のことが好きなんだから……!
対して今回の映画化はどうだったかというと、
私がこれをTwitterで見たときの最初の感想は「マリオの尻、すごすぎ……」というものだった。
そしてそれ以降何の情報も調べず観に行った。IMAXで。つまり私はIMAXで3Dに飛び出すマリオの尻を見物しに行ったわけである。古臭いギャグにそっぽを向く高貴なガキ様も20年も経てば男の尻を目当てに映画館に行くようになるという厳然たる事実に思わず目眩がしそうである。でもさ、ほんとすごくない……? この尻……
しかし尻の記憶がまるでないのである。イルミネーションのアニメは動体視力の衰えはじめたアラサーには速すぎて尻をゆっくり観るどころではなかったのかもしれない。映画としても実は満点という興奮を覚えたわけではなかったりする。個々のアクションシークエンスは面白くできていると思うのだが、強いて言うならばヘルシーすぎるのか。
しかしそれでも十分に心打たれるものがあった。
その存在がイコールキノコ王国総戦力であるところのピーチ姫もいいし(もはやマリオを「Bro」呼びせんばかり)、ドンキーコングも何やら調子に乗った若者のような味付けをなされていてかわいい。
何よりマリオがめっちゃお兄ちゃんで、ルイージを助けることしか考えていない。
そもそもピーチ姫は自分でキノコ王国を守る気満々だし、マリオのこともバナナ王国の軍団と同じく戦力としてしかカウントしていない節がある。
一方ルイージは『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』におけるサイモン・ペッグのごとき姫ポジである。再会したマリオとルイージの後ろにハートの輪っかが立っていたのを見たとき、私は思わず「ホヒョw」みたいな声を上げてしまいました。
それに、ルイージはもう一つ重要な役割を担っている。
あなたとマリオの関係性を思い出させることだ。
ゲームにおけるプレイアブルキャラクターとは何だろう。
あなたの代わりになってくれるもの。SAOみたいな状況にでもなっていなければ、あなたがゲームをしてもダメージを受けるのはあなたではなく、キャラクターである。あなたを守ってくれているとも言えるだろう。
あるいは、導いてくれるもの。あなたの行き先がどこで、使った方がいいアイテムは何で、どんなアクションをしたらいいのかを教えてくれる。
あなたでもあるし、あなたでないものになるもの。
あなたの最良の友。
あなたの兄。
映画においてルイージの最古の記憶はマリオに守ってもらうことである。そして「ルイージマンション」みたいな酷い目に遭いまくった末に、最後は臆病な自分に打ち勝ってマリオを助け、共に戦う。
このラストは、ゲームのプレイアブルキャラクターとプレイヤーの関係そのものを美化せしめている。マリオはひとりでには勝ってはくれない。あなたがマリオを動かし、あなたがスターを取りに行かせてこそ、勝利できるのだ。
共に輝いてクッパを打ち倒すというラストは、マリオを愛してきた私たち全員の人生に対するカタルシスをもたらしている。何と豪華な夢小説映画であろうか。
評論家とプレイヤーの間で評価が分かれるというのも当然であろうと思う。前者はゲーム映画と思って鑑賞し、後者にとっては最良の夢小説なのだから。
はあ〜ッ、私もマリオに守られたい……私もドアを開けてほしい、マリオに……マリオと同居したい……コーヒーを手渡して、女房役ですけど? の顔をしたい……
*
なぜあのぬいぐるみを手放してしまったのだろう、と今でもたまに思う。
古びていたのは確かだ。目に施された印刷は掠れて、服も何度も瞬間接着剤で直した。マントはハサミで切った記憶がある。
その時の私は、そういうことをしたら大人になれる、と思っていたような気がする。人形遊びをやめないといけない、と思い込んでしまったのである。
20年後の自分が毎日IKEAのサメくんに「もう私は駄目なんだ……このまま一生布団で暮らすんだ……」とクダを巻いていると知ったら恥のあまり舌を噛んでしまうのではないだろうか。
マリオは何をしても怒らなかった。海苔巻きのように丸めてみたり、ヨッシー(ヘビ)に食べさせたりしたけれど。いやとは言わなかった。マリオは何でも許してくれた。
綿の詰まった団子鼻を何度も噛んだ、その歯触りを今でも思い出す。